【命名の謎】「柳川鍋」はなぜ「柳川」なのか——店の名前か、鍋の産地か、消えない二つの説

料理と言語

「柳川鍋」を頼むと、どじょうとごぼうが卵でとじられて出てくる。

でも「柳川」って、いったい何のことだろう。

川の名前でも地名でもなさそうなのに——実はこの名前、江戸時代からずっと正体不明のままなのだ。

🍳 今回のテーマ

「柳川鍋」という名前を巡る、店名説と鍋の産地説のせめぎ合いを追う。

江戸横山町の店が生んだ「本家」説

有力なのは、江戸横山町新道にあった「柳川」という店が考案したという説だ。

江戸時代の風俗記録『守貞謾稿』にそう記されている。

この店が、開いたどじょうをささがきごぼうと一緒に煮て卵でとじる、今の柳川鍋の形を最初に出したとされる。

ただし、どじょう鍋自体の歴史はもっと古い。

文化元年(1804年)、浅草駒形の「越後屋」がどじょうを開かずそのまま煮る鍋を売り出したのが最初とされ、これは今も「丸鍋」と呼ばれ区別されている。

さらに文政年間(1818〜30年)の初め、南伝馬町三丁目にあった「万屋某」という店が、どじょうを開いてごぼうと煮る鍋を出した。

これが「柳川鍋」の名前が使われ始めた最初とも言われるが、この時点ではまだ卵とじはなかった。

「どじょうを開く」「ごぼうを加える」「卵でとじる」という工夫が複数の店を経て少しずつ積み重なり、横山町の「柳川」が完成形に仕上げた——というのが本家説の骨格だ。

鍋の産地「柳川焼」からきたという説

もう一つ有力なのが、料理名ではなく鍋そのものの名前からきたという説だ。

使われた土鍋が「柳川焼」と呼ばれ、九州・柳川(現在の福岡県柳川市)で焼かれたものだったという。

老舗「駒形どぜう」に伝わる話では、柳川の陶工が豊臣秀吉の時代に朝鮮へ渡り、現地で焼き方を学んで持ち帰ったのがこの柳川焼の起源だという。

秀吉の朝鮮出兵は文禄・慶長の役(1592〜1598年)と呼ばれ、この時期に多くの陶工が日本に連れてこられ、各地の焼き物文化に影響を与えたことはよく知られている。

柳川焼もその流れの中で生まれた鍋だとすれば、料理名は店の名前ではなく、遠く九州から来た鍋の産地に由来することになる。

💡 裏話

柳川鍋の発祥を名乗る店は、実はほかにもある。日本橋箔屋町の「柳川屋」、浅草千束村の小料理屋、本所の鰻屋——江戸の庶民料理は正式な記録より先に町中へ広まることが多く、後から「元祖」を名乗る店が複数現れるのは珍しくなかった。

「柳川丼」「舞子丼」という枝分かれ

柳川鍋をご飯にのせた丼物は「柳川丼」と呼ばれる。

別名「舞子丼」という呼び方もあり、これにも二つの説がある。

一つは、どじょうの別名「おどりこ」——身をくねらせる様子が踊り子に似ていることから——が「舞子」に転じたという説。

もう一つは、滋賀県の近江舞子で獲れたどじょうを使ったからだという説だ。

🗣 言語的視点

一つの料理から、また新しい名前の謎が生まれる。日本語の料理名は、由来がはっきりしないまま複数の説を抱えたまま定着することが少なくない。

結局、柳川鍋の名前の由来は今も確定していない。

店の名前なのか、鍋の産地なのか、あるいはその両方が絡み合っているのか。

江戸の庶民料理には正式な由来書などなく、口伝えで広まるうちに諸説が並び立つのが常だった。

それでも「柳川」という響きだけが、200年以上たった今も鍋の名前として生き続けている。

🍳 まとめ

柳川鍋の名前には「店名説」と「鍋の産地説」という二つの有力な説がある。文化元年(1804)の丸鍋、文政年間のぬき鍋を経て、横山町の「柳川」が卵とじの完成形を生んだとされる一方、九州柳川産の柳川焼という鍋の存在も見逃せない。正解は一つに絞れないまま、名前だけが今日まで受け継がれている。

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