「ほうとう」「ひつまぶし」「ふろふき大根」。
名前を聞いただけで、なぜか肩の力が抜ける気がしないだろうか。
実はこれ、気のせいではないかもしれない。
日本語の「ハ行」という音そのものに、秘密が隠れている。
🍳 今回のテーマ
「ハ行」という音がもつ呼気のやわらかさが、料理名の印象をどう左右しているのかを、音韻史と音象徴の両面から掘り下げる。
「は」はもともと「ぱ」だった
日本語のハ行音は、奈良時代以前には現在の「パ」に近い破裂音だったというのが言語学ではほぼ定説になっている。
それを裏づけるのが、1603年に長崎で刊行された『日葡辞書』だ。
日本語を学ぶポルトガル人宣教師のために編まれたこの辞書には、「はな(鼻)」が”fana”、「ひと(人)」が”fito”とローマ字で記録されている。
つまりこの時点ですでに発音はP音から、唇をすぼめて息を出すF音(専門的には両唇摩擦音)へと変わっていたことになる。
今のような喉の奥から息を出すH音に落ち着いたのは、さらに後の江戸中期以降とされる。
💡 裏話・豆知識
『日葡辞書』は当時の話し言葉を忠実にローマ字化した資料として貴重で、現代日本語の発音史を研究するうえで欠かせない一冊になっている。江戸時代より前の日本人がどんな音で喋っていたかは、この辞書のような外国人宣教師の記録がなければ分からなかった。
「ほうとう」は10世紀の中国語だった
山梨の郷土料理「ほうとう」は、平打ち麺を野菜と味噌で煮込む素朴な料理だ。
武田信玄が陣中食にしたという伝承でも知られているが、名前の由来はさらに古い時代までさかのぼる。
平安時代中期、930年代に源順(みなもとのしたごう)が編んだ辞書『和名類聚抄』には、すでに「餺飥(はくたく)」という漢語が記されている。
これは唐代中国で食べられていた小麦粉の団子・麺料理を指す言葉で、「はくたく」が音変化して「ほうとう」になったとする説が有力とされている。
千年以上前の中国の食べ物の呼び名が、姿と発音を変えながら、今も山梨の郷土料理として食卓に残っている。
呼気の音は「安心」の合図になる
言語学の音象徴(サウンドシンボリズム)研究では、摩擦音や息を伴う子音は、聞き手に柔らかさや温かさの印象を与えやすいと指摘されている。
日本語の「はあ」というため息も、「ほっとする」という慣用句も、すべてハ行の音でできている。
湯気の立つ「ひつまぶし」も「ふろふき大根」も、その名前を発音する瞬間、自分の息を使うことになる。
料理名を口にする行為そのものが、無意識のうちに温かさを演出しているのかもしれない。
🌐 言語的視点
英語の”home””hearth”(暖炉)がいずれもH音で始まるのも、単なる偶然ではないという指摘がある。喉から息を長く流すH音・F音は、破裂音のように音を瞬間的に区切らないため、聞き手にゆったりとした持続的な印象を与えやすいとされる。
破裂音のパ行、摩擦音のハ行
以前の記事で触れた「がっつり」「さくっと」のような促音+パ行・カ行は、勢いや軽快さを演出する音だった。
対照的にハ行は、音を瞬間的に止めずに息を流し続けるため、急かされる感じがしない。
「ほっけ」「はんぺん」のようにじっくり味わう魚介加工品にハ行の名前が多いのも、偶然ではなく無意識の音選びの結果なのかもしれない。
実際、江戸時代の料理番付や献立帳を見ても、じっくり煮込む汁物や鍋料理にハ行の名前が集まる傾向が見て取れる。
料理名は、味や見た目だけでなく、発音するときの息づかいまで含めて記憶に残っているのかもしれない。
ハ行という一つの行の変遷をたどるだけで、千年単位の歴史と、無意識の心理効果の両方が見えてくる。
✅ まとめ
ハ行は奈良時代のP音から、江戸初期のF音(『日葡辞書』1603年)を経て、現代のH音へと変化してきた。郷土料理「ほうとう」の名は930年代の中国語「餺飥」に由来するとされ、ハ行の摩擦音・喉音は聞き手に安心感や温かさを連想させるという音象徴の指摘もある。



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