【命名の謎】「奉書焼き(ほうしょやき)」はなぜ「奉書」なのか——公文書に使う和紙が、殿様の魚料理になった理由

料理と言語

島根県・宍道湖のほとりで、漁師が焚き火の灰の中にスズキを埋めていた。

皮ごと蒸し焼きになったその魚を、時の殿様がひと目見て「食べたい」と言い出したことから、この料理の歴史は始まる。

名前についたのは、魚でも殿様でもなく、当時の公文書に使われていた和紙の名前だった。

灰まみれの魚を、殿様に出すわけにはいかない

この料理の主役は、宍道湖と中海を回遊するスズキ。

漁師たちは古くから、獲れたスズキを焚き火の灰に埋めて蒸し焼きにして食べていたという。

江戸時代、石高18万石余りとされる松江藩の7代藩主・松平治郷(1751〜1818)がこの噂を聞きつけ、所望した。

だが、灰にまみれたままの魚を藩主の膳に出すわけにはいかない。

そこで漁師や料理人が代わりに使ったのが、当時、公文書などに用いられていた上質な和紙だった。

紙に包んで蒸し焼きにすれば、灰は付かず、身の水分も焼き汁も逃げない。

この一件が「奉書焼き(ほうしょやき)」の始まりと伝えられている。

🍳 裏話

治郷は財政破綻寸前だった松江藩を「御立派の改革」(家老と進めた財政再建策)で立て直した名君として知られる一方、若い頃から茶の湯に打ち込み、隠居後には「不昧(ふまい)」と号して独自の茶道流派まで確立した人物。政治と美意識、両方に厳しい目を持つ殿様だったからこそ、灰まみれの魚を出すわけにはいかなかったのかもしれない。

使われた紙は、もともと料理とは無縁だった

「奉書紙」は、楮(こうぞ)を原料とする和紙に白土などを混ぜて漉き上げた、厚みと強度のある高級紙のこと。

戦国時代後期の記録『尋憲記』(奈良・興福寺の僧が残した日記)には、1573年に「奉書かみ」を越前で買い求めたという記述が残っており、江戸時代には武家が正式な文書を伝達する際の紙として定着していた。

いわば、当時の「公印つきの重要書類用紙」でもる。

産地としては福井県越前が最高級とされ、現在も人間国宝の手による越前奉書が、木版画などの美術用紙として使われ続けている。

破れにくく、水分をほどよく含んで蒸気を通す性質は、たまたま魚を包んで焼くのにも都合がよかった。

公文書用の紙が、蒸し焼き料理の調理道具として転用された格好だ。

「利休焼き」は人の名前、「奉書焼き」は紙の名前

和食の名前には、考案者や愛好者の名がそのまま残るものが少なくない。

ゴマ衣の焼き物「利休焼き」が茶人・千利休の名を冠しているのは、その代表例だ。

ところが奉書焼きの場合、料理を所望した殿様(不昧公)の名前は使われず、代わりに包んだ「紙」の名前が料理名になった。

藩主本人の名を軽々しく食べ物の名に使うことへの遠慮があったのか、それとも単に見た目の特徴がわかりやすかったからか、理由はいずれも推測の域を出ない。

ただ、人名ではなく道具や材料の名前がそのまま料理名になる例は、ざる蕎麦の「ざる」などにも見られる、日本語の命名感覚のもう一つの型と言える。

🗣️ 言語的視点

日本語の料理名は「誰が作ったか」だけでなく「何で作ったか・何に見えるか」でも名付けられる。奉書焼きは後者、つまり調理に使った道具(紙)が料理そのものの名前に昇格した例といえる。

庶民が食べられるようになったのは、明治になってから

奉書焼きは以降、「不昧公好み」の味として代々の松江藩主に献上される料理になった。

庶民が口にできるようになったのは、藩政が終わってからのことだ。

藩政が終わり、藩主のためだけの料理という縛りが消えたことで、地元の料亭がこの調理法を受け継ぎ直したかたちだ。

その一つが、1890年創業の松江の料亭「臨水亭」で、2代目が郷土料理として復活させたと伝えられている。

現在、スズキの奉書焼きは「宍道湖七珍(しんじこしっちん、宍道湖でとれる代表的な7つの味覚の意)」の一つに数えられている。

七珍とはシラウオ、アマサギ、スズキ、コイ、エビ、シジミ、ウナギの7品を指し、家庭より料亭で、しかも会合や祝宴などのハレの日(お祝いごとなど特別な日)に供されることが多い、今なお少し特別な料理である。

今も提供の際は、包んだ紙のまま焼き上げたものを客の前で開き、湯気とともに白身魚が現れる瞬間を見せる店が多い。

🌾 まとめ

「奉書焼き」の名は、魚でも産地でもなく、灰まみれの魚を殿様の前に出すための”包み紙”の名前だった。江戸時代の公文書用紙が、200年以上たった今も松江の郷土料理の名前として残っている。

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