「しゃぶしゃぶ」という料理名を、擬音語だと思っていないだろうか。
肉を熱い湯にくぐらせる、あの「しゃぶ、しゃぶ」という響きから生まれた自然な呼び名だと。
だが実はこの名前、れっきとした登録商標だった。
しかも生まれた場所も、名付けた人物も、はっきり記録が残っている。
擬音語のようで、実は商標だったという意外性
「もちもち」「さくさく」といった食感語の多くは、誰か一人が発明したわけではない。
長い年月をかけて、自然発生的に日本語に定着してきた言葉たちだ。
ところが「しゃぶしゃぶ」は違う。
大阪の一軒の飲食店が、たった一人の店主のひらめきで名付け、商標として登録までした固有名詞なのである。
擬音語のふりをした商標——この時点で、すでに一筋縄ではいかない名前だとわかる。
大阪・永楽町スエヒロで起きた、たった一瞬のひらめき
時は1952年(昭和27年)、大阪・永楽町にあったビフテキ専門店「スエヒロ」。
当時の店主・三宅忠一は、関西で評判になりつつあった新しい鍋料理を自店のメニューに加えようとしていた。
薄切りの牛肉を熱湯にくぐらせて食べる、まだ名前のない料理だ。
ある日、店の従業員がたらいの中でおしぼりをすすいでいた。
その水音が「しゃぶ、しゃぶ、しゃぶ」とリズミカルに響いた瞬間、三宅の頭の中で鍋の中の肉を振る動作と重なった。
「しゃぶしゃぶや。しゃぶしゃぶは肉の洗濯や」——三宅はためらうことなく、この名を新作料理に付けたという。
洗濯という比喩まで添えた、即興のネーミングだった。
🍢 裏話
スエヒロは「肉のしゃぶしゃぶ」「スエヒロのしゃぶしゃぶ」を商標登録している。Wikipediaでは1955年(昭和30年)登録とされるが、1958年(昭和33年)とする資料もあり、正確な登録年には資料によってばらつきがある。いずれにせよ、命名からそう遠くない時期に商標として権利化されたのは確かだ。
実はこの料理、名付けられる前から京都に存在していた
ここで一つ、誤解を解いておきたい。
三宅忠一が発明したのは「名前」であって、「料理」そのものではない。
この鍋料理には、京都で先に生まれていた原型があった。
1945年9月、民藝運動家の吉田璋也が、敗戦によって当時の寄留先だった北京から日本へ引き揚げてきた。
吉田は京都の料理店「十二段家」の主人・西垣光温に、中国で見た羊肉の鍋料理「涮羊肉(シュワンヤンロウ)」を紹介する。
薄切りの羊肉を熱い鍋にくぐらせて食べる、まさにしゃぶしゃぶの原型のような料理だ。
この涮羊肉、内モンゴル自治区の羊肉鍋がルーツともいわれ、さらに遡れば13〜14世紀の元王朝で宮廷医師(食事療法の専門医)を務めた忽思慧が著した食養生書『飲膳正要』に記された「火鍋」に行き着くという説もある。
西垣は、暮らしの中の手仕事の美を見直す「民藝運動」の仲間だった柳宗悦や河井寛次郎の助言を受けながら、羊肉を日本人になじみのある牛肉に置き換え、タレの味を調整し、専用の鍋まで作らせた。
2年近い試行錯誤の末、1947年に「牛肉の水炊き」として商品化にこぎつけている。
つまり料理としての完成は京都が先で、名前としての完成は大阪が後——この二段構えの成立過程が、しゃぶしゃぶという言葉のおもしろさだ。
なぜ「水炊き」ではなく「しゃぶしゃぶ」が全国に広まったのか
「牛肉の水炊き」という名前のままだったら、ここまで全国区にはならなかったかもしれない。
「水炊き」はすでに博多の鶏鍋などで使われていた一般名詞で、新しい料理の個性を伝えきれなかった。
そこに現れた「しゃぶしゃぶ」は、誰も所有していなかった音の響きに、調理の動作そのものを閉じ込めた名前だった。
聞いただけで箸を動かす様子が目に浮かぶ、優れて具体的なネーミングである。
この名前の強さは、その後の派生語の多さにも表れている。
北海道の「たこしゃぶ」「ラムしゃぶ」、富山の鰤を使った「鰤しゃぶ」、関西の鱧を使った「鱧しゃぶ」、そして「蟹しゃぶ」「豚しゃぶ」。
「〇〇しゃぶ」という型に当てはめるだけで、新しい料理名がいくらでも作れる汎用性を持つに至った。
🈂️ 言語的視点
擬音語(オノマトペ)が普通名詞化する例は「ぱくぱく」「わくわく」など日本語に数多いが、しゃぶしゃぶは擬音語が個人の命名行為を経て商標登録され、さらに「〇〇しゃぶ」という接尾語的な造語力まで獲得した珍しい例といえる。音そのものに著作権や商標が宿った、日本語の中でも特異な語彙形成の道筋である。
🍲 まとめ
「しゃぶしゃぶ」は自然発生した擬音語ではなく、1952年に大阪・スエヒロの三宅忠一が、おしぼりをすすぐ水音から着想して名付けた登録商標だった。料理自体は京都の十二段家が先に「牛肉の水炊き」として完成させていたが、全国に広めたのは大阪生まれのこの一語だった。一軒の店の店主の思いつきが、今では「蟹しゃぶ」「鰤しゃぶ」まで生む言葉の型になっている。



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