大学芋には、大学が発案した記録も、大学の食堂で生まれた記録も残っていない。
それでも「大学芋」という名前は、100年近くこの姿のまま定着している。
由来を調べていくと、有力候補が一つに絞れないまま、三つの説が今も並んで語り継がれていることが分かる。
赤門前の「三河屋」に立つ噂
もっとも広く紹介されているのが、東京大学の赤門前にあったという店の話だ。赤門はもともと江戸時代の加賀藩上屋敷の門で、今も東京大学そのものを指す通称として使われている。
大正の初め頃、赤門前で氷屋を営んでいた「三河屋」が、冬場の副業として揚げたさつまいもに蜜をからめて売り出したという。
これが東大の教授や学生のあいだで評判になり、いつからか「大学生が好んで食べる芋」として「大学いも」と呼ばれるようになった、というのがこの説の筋書きだ。
ただし、この三河屋の話には年代のブレがある。
「大正初期」とする紹介がある一方で、「昭和15年(1940年)ごろ」と紹介する記録もあり、同じ店の話のはずが二十年以上ずれている。当時の新聞などに記録が残っているわけではなく、人づてに語り継がれてきた逸話であるために、こうした食い違いが生じているとみられる。
学費を稼ぐ苦学生たちの内職という説
二つ目は、学生自身が売り手だったとする説だ。
昭和初期、1929年に始まった世界恐慌のあおりで日本も深刻な不況に見舞われ、学費や生活費を自力で工面する「苦学生」が珍しくなかった時代がある。
この説では、そうした苦学生の何人かが、安価に手に入るさつまいもと砂糖だけで作れる蜜がけ芋を自分たちで揚げ、売り歩いて学費の足しにしたとされる。
材料費が安く、調理も難しくない蜜がけ芋は、たしかに元手の乏しい学生が空き時間にできる内職(自宅などでできる副業)には向いていそうだ。
もっとも、これも「東大生が」というだけで、誰が・いつ・どこで最初に売ったのかを示す記録は見当たらない。
「大学」を付けると売れた時代——大学ノートとの奇妙な符合
三つ目は、食べ物そのものよりも、当時の「命名の流行」に理由を求める説だ。
明治から大正にかけて、商品名に「大学」を冠することがちょっとしたブームになっていた時期がある。
もっとも分かりやすい例が、今も使われている「大学ノート」だ。
記録によれば、明治17年(1884年)、東京帝国大学(現在の東京大学)の赤門前に店を構えていた文具店が、イギリスから輸入した洋紙を手製で綴じたノートを売り出した。
それまでの和紙の帳面より上質で高価だったこのノートは、学業に励む大学生にふさわしい一冊として評判になり、「大学ノート」の名で定着したとされる。
大学芋の三河屋説と、この大学ノートの由来が、同じ「赤門前」という場所を舞台にしているのは興味深い一致だ。
🍡 裏話・豆知識
大学ノートが生まれたとされる明治17年は、東京大学が「東京帝国大学」に改称される前年にあたる。ちょうど日本の高等教育制度が本格的に整い始めた時期で、「大学」という言葉自体が世間にとって新しく、権威と憧れの響きを持っていた。「大学芋」が生まれたとされる大正〜昭和初期は、それから三十〜五十年ほど後のことになる。
なぜ今も由来が一つに定まらないのか
三河屋説、苦学生の内職説、命名ブーム説。
どれも「ありそうな話」ではあるが、当時の新聞記事や店の帳簿といった一次資料(同時代に作られた記録)に基づくものではなく、後年の聞き書きや紹介記事の中で語り継がれてきたものだ。
大正から昭和初期の庶民の食べ物の名前は、そもそも誰か一人が命名して広めたというより、屋台や露店の呼び声、客同士の噂話のなかで自然に定着していったものが多い。
「なぜその名前になったか」を記録する人がいなければ、後から由来を一つに確定させる手立てはほとんど残らない。
大学芋という名前が、三つの説を抱えたまま今日まで語り継がれているのは、まさにそうした「名付け親のいない名前」の典型といえる。
💬 言語的視点
「大学」のように、特定の場所・組織を指す言葉が、いつの間にか「その言葉が持つイメージ」だけを表す記号に変わっていく現象は、言語学では意味の一般化(generalization)と呼ばれる。「大学芋」の「大学」はもはや特定の大学を指さず、「学生に人気」「ちょっと上等」といった漠然とした好イメージだけを運ぶ言葉になっている。
🍠 まとめ
「大学芋」の名前には、赤門前の店「三河屋」が広めた説、学費に困る苦学生が内職で売った説、「大学」を付けるのが流行した説という三つの由来が伝わっているが、いずれも決定的な記録はなく確証はない。同じ赤門前で生まれたとされる「大学ノート」と合わせて眺めると、大正〜昭和初期の東京で「大学」という言葉がいかに憧れの響きを持っていたかが見えてくる。



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